親ガチャ(禁酒368日目)
ぬるりと禁酒一年を超えたが、むしろやる気を出さ下がり中。
しかしお酒は飲んでおらず。
お酒は飲んでいない1番の理由は、単に朝が早いからだ。それ以外何もない。
酔っ払った状態で出歩きたくないだけである。
もし全てが家で完結するようになったならば、確実に再び酒を飲みだすだろう。
今のところそのめどが立っていないから良いのだけれど。
結局のところ、自分がお酒にハマっていた理由はお酒自体にはなく自分自身の問題である。
禁酒も2年目。
次はその問題に対処していかなければ。
一番の問題は何かと言えば、自尊心の低さか。そして乱れやすい生活。さてさて。
最近巷で話題になっている言葉の1つが、親ガチャと言うものだ。
アル中にとっては、無視できない言葉の1つなんじゃないだろうか。
それは例えばアル中になる原因が、親であったり、また自分がアル中であるが故に、子供から見放されたり。
今のところ子供は自分にいないので、当てはまるのは前者だけである。
思えば自分の親父もアル中だ。
と言うより、遺伝子では生粋のアル中だ。
遥か昔のご先祖様、祖母の祖父は広い田んぼを持っていたのに、それを全てお酒で潰したと言う今時時代劇でも聞かないようなことをやったらしい。
自分自身で決められる事は、自分が思った以上に少ないと言うのは、昔ブログにも書いた。親、生活環境、そして遺伝子。その他様々なものが自分自身を生み出していく。
このようなことを、カジュアルにガチャと呼びたくなるのもとてもわかる。
でも問題自体は昔からあったことだろう。
それに呼び名がついただけにすぎない。呼び名がついただけまだマシかもしれない。
そんな呼び名もなかった頃は、親のせいにはできないで、全部自分のせいだと言われていた。
勉強できない自分が悪い。コミニケーションが取れない自分が悪い。容姿が悪い自分が悪い。センスが悪い自分が悪い。努力できない自分が悪い。
そいつが悪いのだから、攻撃しても何も問題がない。そういう考えは絶対にある。
でもこれらは、果たしてその本人がどれほど責任があるのだろうか。
努力次第で、なんとかなることもある。
しかsk言ってしまえば努力ですら才能に左右される。
努力する才能がなければ、まず努力する努力が必要だ。
一見同じ努力でも、この時点で倍の労力の差が発生してることになる。
それはハンデがあると言える。
人には見えないアドバンテージ、そしてハンデがある。
どうにかしてほしいなら、助けてと声をあげればいいと言う。
その声の上げることすら場所を間違えれば無意味なものとなる。
振り絞ってあげた声を嘲笑されれば、二度と声をあげる事はなくなるし、それがきっかけで、悪い方向へ最後の1歩だって踏み出すだろう。
そしてそんな人間は、この国にはたくさんいる。その事実がわかっているから、みんな斜に構えるようになって、それでも助けてと声を上げるために生み出された言葉が親ガチャという言葉なんだと思う。
その言葉自体を、恵まれた人生を歩んできた人々が忌み嫌うが(あるいは恵まれていなくても何とかできる環境や力をもっていた人たち)その言葉が持っている本質を、見落としてはならない。
平気で見落とす人たちは、自殺した人々に対してなんで死んだとか言うのだろう。
なんで死んだかと嘆きながら、その現状をどうにかする気なんかみんなさらさらない。それがわかっているからますますみんな斜に構えていく。
親ガチャと言う言葉自体はカジュアルすぎて好きではないが、いろいろとみんなが考えるきっかけになると言う意味では良い言葉かもしれない。
禁酒して、お酒に逃げられなくなってから、以前以上に色々と面倒なことを考えるようになった。
本日もありがとうございました。